2010年3月28日日曜日

行田を訪ねる②





古墳と言っても人間のお墓だ。古くなればピラミッドも然り観光名所になり登ることも許されるんだ。

関東平野のまっ平らなところで古墳頂上から見渡すと利根川、荒川に囲まれた忍城を水攻めにしよう。

こんな壮大な発想が生まれてこようが実際に土嚢を積まされる兵隊は並大抵な作業ではなかったろう。

小説にも出てきたが実際に作業に駆り出された土地の百姓は昼間は豊臣勢に加担して土手作り作業で収入

夜になると忍城の為に土手の数か所に穴を掘り弱体化させる。

したたかな百姓の知恵が最後は勝つという、7人の侍ばりの物語だ。

もうひとつの行田足袋で有名な足袋の工場が残っていた。

小錦、曙が使用していた大きな足袋、ビロード、別珍、福助、力王地下足袋、懐かしい言葉が見受けられた。

足袋と書いて”タビ”と読ませる謂れを聞いて成程ガッテン

江戸時代の初期に鹿皮で作った旅行靴(足袋)を木綿材で作り成功したのが行田商人で地場産業に発展

この時代に沢山作られた足袋の倉庫(蔵)を保存しようとの目的でNPO蕎麦屋があったので昼飯にした。

行田を訪ねる


 



ユニークな小説家、和田竜の”のぼうの城”の舞台になった埼玉県の行田市を訪れた。

今年秋ごろに映画化される予定になった。

どんな映画か楽しみだ秀吉が北条攻めをしたとき難攻不落の忍城をどうやって落とすか

戦略を練って、利根川、荒川を堰どめして水攻めを敢行したしたところだ。

地理的にも、特に戦国時代には水を治めることが最重要で川越、岩槻と並んで行田は

江戸幕府の要であることが良く分かった。

こんな近いところに9つもの埼玉古墳群が残されていて、その一つの円墳頂上には光成

が布陣した場所があり、桜が植えられていて関東平野のパノラマ展望できる。

桜見物には2~3日早かったが観光客も少なく、遠足で来たのか子どもたちが

のびのびと遊んでいた。

案内してくれたボランティアーの話では子ども時代はこの一帯は絶好の遊び場であったとか


大和朝廷時代の金錯銘鉄剣が発見され国宝として展示されていた。

古墳群が徐々に整備されて、世界遺産に登録申請準備中であるという。

古墳群の中に土地地権者がこれ見よがしのビニールハウス野菜栽培などやっていたり、

別の古墳の上には民家が現存しているとか。世界遺産申請過渡期の戦いであろうか。



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